昭和 13(1938)年邑久光明園年報に光明園側の桟橋が記されており、邑久光明園建築工事に使用されたと思われる。
桟橋は海上 22m しかない対岸の虫明瀬溝地区と長島の邑久光明園の渡し場として木船により使用された。対岸と両方の桟橋を総称して「瀬溝の桟橋」「瀬溝の渡し」と呼んでいた。
桟橋は、石積み。先端に向かって左側は約 10.8m、右側は9.9m の台形になっている。台風の被害により先端部が損傷し現在は、半分以下の長さになっている。また、光明園の渡し場には、狭い海を渡って逃走する患者を見張る為、昭和 15(1940)年ごろ門衛詰め所が設けられていたが、現在は無い。
1938年
※登録有形文化財(建造物)